3-2-2. 事例研究 「書物におけるイメージとテクスト」 16・17世紀ヨーロッパの書物と挿絵

慶應義塾大学文学部教授
松田 隆美

HUMIプロジェクトが構想しているデジタル・リサーチ・ライブラリの特質をその中心的コンテンツである書物の性格との関連で定義するならば、いわゆる電子図書館が書物のテクストの機械可読化を中核にすえているのに対して、当プロジェクトは書物をひとつの「もの」としてとらえ、その外観やレイアウトも含めてすべてをデジタル化の対象とする点である。そこでは書物は何よりもまずイメージであるが、そうしたデジタル・イメージングの作業は、ある意味では、書物を構成しているテクスト本文と、挿絵、欄外装飾、余白などの狭義の「イメージ」部分との相互関係をデジタル化することに他ならない。それは、書物を紙という媒体を用いて情報を伝達する単なるひとつのメディアに還元してしまうことなく、テクストとイメージから構成される総体としてとらえることであり、そうすることで、テクスト中心で推移してきた19世紀以降の書物受容とその延長線上にある電子図書館のあり方に対して、ひとつの異なった視点を対峙させることである。

また、テクストが書物という物理的な文脈を介することなしには伝達され得なかった今世紀初頭までの状況を考えるならば、書物の形状やレイアウトは、テクストの解釈に否応なしに影響を与えてきたといえる。書物を「もの」としてデジタル化することは、書物というコンテクストを重視することでテクスト自体の解釈を深める方法論でもある。

デジタル化はテクストをイメージとしてとらえ、本来の書物のかたちを再認識することをうながすが、中世写本と並んで近代初期の挿絵本は、そうしたテクストとイメージとの多様な関係を端的に内包している。18世紀までは一冊の書物の中でテクストと挿絵とが相互補完的にひとつの意味を伝達し、またページのレイアウトもその書物の利用形態と直接関連していた。また中世写本においても、写本のテクスト、余白、挿絵によって構成される書物のレイアウトが、テクストの利用方法や解釈にとって重要な意味を持っていた。西洋の写本における挿絵の起源を考えても、テクストの理解を容易にするために導入された頭文字や段落記号が装飾化したものが挿絵であると考えられる。1)

そうした挿絵本の研究は、デジタル化により益するところが大きいが、デジタル・イメージングを単にひとつのリサーチ技術に還元してしまうのではなく、テクストとイメージを同様に検索でき、その相互関係自体もデータベース化するようなリサーチ環境の作成が重要となってくる。そうした文脈を付されることで、挿絵本の研究は新たな方向性を獲得することも可能である。 以下、1999年1月に日本橋丸善で行われた慶應義塾図書館主催の展示、「寓意の鏡−16・17世紀ヨーロッパの書物と挿絵」展の企画と監修の過程、さらに展示品の図録を書物とWebの両方で作成した経過をふまえて、イメージとテクストの二面性の重要性と、そうした研究データの構築とアクセスの方法について考察する。

1. 中世写本から16世紀刊本へ−レイアウトに見る変化

1-1. 挿絵本の登場  

16・17世紀のヨーロッパは、書物におけるテキストとイメージの関係、より具体的には本文と挿絵の関係がそれまでになく多様化し、多くの挿絵本が印刷、出版された時期であった。西洋最初の活版印刷による書物「グーテンベルク聖書」は1455年頃にドイツのマインツで印刷され、活版印刷術はその後の10-20年の間に、グーテンベルクやその弟子のシェーファーのもとで働いていた印刷工によってヨーロッパ各地に急速に広まっていった。挿絵としての版画も15世紀中期には実用化されていた。木版画は14世紀末から出回っていたが、銅版刷りの技術も活版印刷とほぼ時を同じくして完成していた。第一次グーテンベルク革命とともに、ヨーロッパにおける書物生産の歴史は、テクストと挿絵のさまざまなあり方を、作者、画家、版画家、印刷者が協力して模索する時代に入ったと言える。

インキュナビュラ(1500年以前に印刷された書物の総称)の3分の2は、ドイツ、イタリア、フランス語圏に位置する12の都市、--ケルン、アウグスブルク、ライプチヒ、ニュルンベルク、ストラスブール、バーゼル、パリ、リヨン、ヴェネツィア、ミラノ、ローマ、フィレンツェ--で製作されたというデータがあるが、16世紀には、アントウェルペン、アムステルダム、ロンドンなどの諸都市も極めて重要な書物生産の中心地となる。さらに16世紀後半になって、彫版技術のめざましい進歩のもとで、木版とならんで、より繊細で細密な描写が可能な銅版画が書物の挿絵に広く使用されるようになると、書物における挿絵の役割は拡がり、作者と出版者、そして版画家の協力体制はより緊密なものとなった。

1-2. 中世写本のレイアウトの継承

書物におけるテキストと挿絵の密接な関係は、近代初期だけの特色ではない。中世において、時祷書や文学・哲学作品の写本には画家が製作した細密画が挿入され、挿絵入り頭文字(historiated initial)や欄外装飾が余白を埋めていたが、これらのイメージはしばしばテキスト内容と密接につながっていた。近代初期の書物は、これらの中世的コンポーネントを継承するとともに、レイアウトの面でも中世写本のそれを受け継いでいる。たとえばプルタルコスの『英雄伝』(cat.1) 2)<画像1>に見られるように、フォリオ版のインキュナビュラは、同時期に制作されていた写本とほとんど変わらぬレイアウトと手書きの装飾を有している。さらに挿絵入り頭文字や欄外装飾は木版や銅版による飾り文字や枠飾りに形を変え、16世紀になっても受け継がれていく (cat. 3-4)。

1-3. 書物のサイズの小型化

15世紀から16世紀への書物の変化で特記すべきもうひとつの点は、書物のサイズの小型化である。インキュナビュラの時代には書見台におくことを前提としたフォリオ版の書物が多かったが、徐々に携帯可能な4つ折りや8つ折りの版で印刷することが一般的になってゆく。神学的注解書などには検索が容易なフォリオ版が使用され続けるが、15世紀末にアルドゥスによって古典作家の作品が携帯可能なポケット版で刊行され始めるころまでには、書物のサイズの小型化は本格的に進行していたと思われる。

西ヨーロッパで製作されたインキュナビュラの場合、中世写本の形状とレイアウトを、しばしば「グーテンベルク聖書」の影響を間接的に受けることで引き継いでいる。イタリアに活版印刷をもたらしたコンラート・シュヴァインハイム(Conrad Sweynheym)とアーノルト・パナルツ(Arnold Pannartz)は、恐らくグーテンベルクの後継者であるフストとシェーファーの印刷工房で働いていたと考えられる。この二人のドイツ人は、1462年10月のマインツ略奪を契機に故郷を離れ、1465年にはローマ郊外のスビアコの修道院で印刷業を始めたが、この二人が異国で印刷業を再開できたのは、ヨーロッパ中に拡がる修道院のネットワークを利用できたためと言える。そうした環境での印刷業とは、教会や大学に書物を供給する中世型の書物生産の形態を継続することに他ならなかったのである。中世写本との連続性は印刷ページのレイアウトにも見て取れる。 たとえば、1467年に印刷されたアウグスティヌスの『神の国』<画像2> 3)は、大型のフォリオ版で二欄組(double column)、手書きの頭文字といった中世写本と共通する特色を有する。また、本書をほぼ同時期の1473年にマインツでシェーファーが印行した同じアウグスティヌスの『神の国』<画像3> 4)と比較してみると、全体のレイアウトのみならず使用されている活字自体も良く似ている。その意味でこの2冊は、どちらも「グーテンベルク聖書」の形状を受け継いでいる。

「グーテンベルク聖書」のレイアウトは初期印刷本においてひとつの基準となったようで、1468年頃にバーゼルで印行された聖書をみても同様の特色が認められる。<画像4>印行者のベルトールト・ルッペルはグーテンベルクの弟子であり、フストとシェーファーの印刷所で働いていたと考えられているが、本書はやはり大型のフォリオ版で2欄組、大型の手書き彩色頭文字、ページ上部のrunning titleの存在、赤と青のイニシャルの交互の使用など、「グーテンベルク聖書」の特色を受け継いでおり、使用している活字も、シェーファー、さらにはシュヴァインハイムとパナルツのそれと類似している5)。こうした左右2欄に組まれたフォリオ版は聖書に限らず、神学書や哲学書においてもひとつの基準となっており、中世を受け継いでいるといえる。

シュヴァインハイムとパナルツは1471年に聖書も印行しているが、それは「グーテンベルク聖書」と同様におおよそ400 x 300 mmの大きさのフォリオ版であった。一方で、ヴェネツィアで1479年にニコラス・イエンセン(Nicolaus Jenson)が印行した聖書は330 x 230 mmと一回り小さく、また1492年に刊行された聖書は170 x 120 mmと、さらに小型化している6)。中世写本的な装飾やレイアウトは、たとえばアルドゥスが1504年に刊行したホメロスや16世紀のダンテの『神曲』に見られるように7)、16世紀になって印刷本の小型化が進んでも部分的に受け継がれているが、書物のサイズそのものは多様化してゆく。

 

2. エンブレム・ブック(寓意図本)の登場

16世紀にみられる書物と挿絵の関係をめぐる変化は、大きく二つにわけられる。ひとつはいわゆる「エンブレム・ブック」(emblem book)の登場であり、もうひとつは、テキスト内容を視覚的に代弁する挿絵として図版を用いるだけでなく、正確に情報を伝えるために用いる地誌や旅行記、図鑑などの登場である。どちらも、中世写本の伝統とは別なかたちで、イメージとテクストの有機的な係わりを希求する変化である。

2-1. エンブレム・ブック

1531年にアウグスブルクの印刷業者であるゲオルグ・シュタイナー(Georg Steyner)は、イタリアの法律家アンドレーア・アルチャーティ(Andrea Alciati)による挿絵入りのエピグラム集を刊行した。これが挿絵とテクストからなるエンブレム・ブックの嚆矢となり、その後19世紀に至るまで、再版も含めて約4000点のエンブレム・ブックが刊行されることとなる。 こうしたエンブレム・ブックに登場するエンブレムとは、今日校章やトレードマークなどに見られるようなモットーと象徴的図案の組み合わせというものではない。その種のものも広義のエンブレムであり、正確には16世紀の紋章のたぐいであるインプレーザ(標章)の子孫であるが、16世紀のエンブレムとは、単純化して説明するならば、題辞(モットー)、挿絵(図像)、詩文(エピグラム)の3つの要素から構成されているものである。  アルチャーティの『エンブレム集』から具体例を挙げて考えてみたい<画像5> 8)。このエンブレムは、'Prudentes'(思慮深い者)という簡潔な題辞と、それぞれ反対の方向を向いた二つの顔が肩のところでひとつとなり、都市の中空に浮いている象徴的に視覚化された絵と、4行詩で構成されている。この顔が二つの顔をもつヤヌス('Janus bifrons')であることが、詩で説明されている。

二つの顔を持ち、過去も未来も既に知っていて、
前にも後ろにもあざけりの渋面を見るヤヌス、
何故、人々はお前を沢山の目と顔を持っているように描くのか?
それは、その姿が、人間が慎重だったということを示しているからなのか?  

ローマ神で1月(January)の語源でもあるヤヌスは境界や入口の守り神で、前後両方、つまり過去と未来を一度に見ることができる。この姿でローマの貨幣にも描かれているが、中世を通じて、時祷書などの暦で1月の図像として広く使用された。この詩文でヤヌスが二つの顔を持つ理由が明らかになり、また中空から前後を見渡すヤヌスが、前後に気を配る慎重さや思慮深さを視覚化するための格好のエンブレムの素材となりうることも理解される。挿絵の下の詩文はこのことを説明し、挿絵と題辞との関係を明らかにする。  

さらに詩文は、修辞的な疑問文によって挿絵から一般的に適応可能な教訓を引き出し、挿絵と題辞を結びつける。この例では、かつて人間は慎重だったと過去形にすることで、はたして現在はどうなのかと間接的に批判を投げかけ、図像学的な絵解きのレベルを超えて、思慮分別の必要性を普遍的な教訓として提示している。エンブレムを構成する3つの要素--題辞、挿絵、詩文--は、お互いに意味を補完しあうことで、単独では表現しきれない複雑な概念を伝えようとするのである。さらに各エンブレムの後に散文による解題や注釈が付加されて、他の著述家からの引用や具体的な例を用いて主題を解説しているが、これは中世以来の釈義学の伝統を受け継ぐものと解釈される。

2-2. インプレーザ、イコン

エンブレムと同じように寓意性をもつ絵で、16・17世紀のエンブレム作家たちがエンブレムとの違いについて議論を展開したものに、インプレーザ(impresa, devise)がある。インプレーザ(標章)は、モットーと象徴的図案によって貴族や王族の個人的理想や願望を表現したもので、寓意性、象徴性の強い紋章と言ってもよい。紋章と同じく、鎧や盾をはじめ家具や書物といった日常的なものにも描かれた。インプレーザを身につけることは15世紀後半以降フランスの貴族の間で流行し、それにともない、古今の著名人が用いたインプレーザを紹介し、その意義、そしてモットーと図そのものの関係などを論じる「インプレーザ集」が誕生する。そうした論考の代表的なもので、両者の違いを論じるに際して影響力が大きかったのが、パオロ・ジョーヴィオの『戦いと愛の標章についての対話』(Paolo Giovio, Dialogo dell'Imprese militari et amorose, Roma, 1555)である。また17世紀になると、メヌストリエ(P. C. Francois Menestrier)やル・モワーヌ(Pierre le Moyne)といったフランスのエンブレム作家もインプレーザに関する論考を展開している。9)

基本的に個人的な意図を表明するインプレーザと異なり、エンブレムは広く文人や芸術家によって使用されるもので、愛や道徳、宗教などに関して普遍的に適応可能な主題を扱う。そうした汎用性ゆえに、図像が表象するものは言葉によって完全に解き明かされる必要があるとされ、インプレーザにはない、詩文による説明が付されることとなる。しかし、当時の理論家も認めているように両者の区別は容易ではない。元来個人的なインプレーザでも、より一般的な教訓を引き出すことが可能なものは数多く、解説を付すことでエンブレムに転用可能でもある。たとえばクロード・パラダン(Claude Paradin)の『英雄の標章』(cat.34) <画像6>は、ジョーヴィオの影響を受けながらも、当時のエンブレム・ブックのレイアウトを取り入れ、図と解説文を組み合わせてインプレーザを説明している。

また、エンブレムに共通する寓意性を持ちうるものにイコン(icon, eicon)がある。元来これは単に図像の意味だが、書物のタイトルとして用いられる'icon'という語は、人物像(寓意的であれ実在であれ)とその人物に関する解説を組み合わせたものを指す。チェーザレ・リーパ(Cesare Ripa)は、抽象概念や人間の徳目、自然界の事象などを擬人化した「寓意的人物像」を集大成した『イコノロギア』を刊行した10)。リーパは、寓意像を懇切丁寧に説明することで特定の図像と概念とを固定的に結びつけており、『イコノロギア』はエンブレム・ブックというよりは、むしろエンブレムを解読するために使用可能なレファレンス・マニュアルになっている。実際本書は、ヴィンツェンツォ・カルターリの『古代の神々の像』(Vincenzo Cartari, Imagini dei Dei degli Antichi, Venezia, 1556)とともに、画家や作家が特定の事物や概念を視覚化するために広く利用された。

2-3. マルチメディア的素材としてのエンブレム・ブック  

このようなかたちで抽象概念やキリスト教的道徳、哲学的命題などを視覚化しようとするエンブレムは、16・17世紀のヨーロッパにおいて幅広い影響力を持った。挿絵の内容の多様性は、そのままエンブレムの対象となる事象の多様性に他ならないが、ギリシャ・ローマ神話や中世のキリスト教的寓意の伝統をはじめとして、全世界が解読されるべき寓意に満ちているという中世以来の認識のもと、自然界及び人間界の全ての事象が象徴的解読の対象となったのである。エンブレム作者たちの多くは有能な人文学者であったが、彼らが考案したエンブレムの魅力は、題辞や詩文をたよりに挿絵にこめられている象徴的意味を解読してゆくところにある。パオロ・ジョーヴィオによると、最良のエンブレムは「解釈のために巫女を必要とするほど難解でないこと、しかし誰もがわかるほど明瞭ではないこと」が条件であった。そこには、カバラやエジプトのヒエログリフなどの神秘的な知を探究する一方で、広範な教化をも心掛けたルネサンス精神の二面性が認められる。  

ここでいう作者とは、詩文を担当し全体を監修する人物のことで、挿絵の製作には画家や版画家があたった。こうした木版や銅版の挿絵に詩文を統合したエンブレム・ブックは、ヴェネツィア、リヨン、パリ、フランクフルトなどの印刷出版業者、そして今日でも博物館として保存されているアントウェルペンのクリストファー・プランタン社などからやつぎばやに出版された。エンブレム・ブックは詩文の作者、挿絵の原画を描く画家、原画を版刻する版画家(3人が常に別な人物とは限らないが)の共同作業である。中世の画家にとって写本の細密画の製作が重要な仕事であったように、16・17世紀の画家や版画家にとって、エンブレム・ブックをはじめとする挿絵本の原画を作成し実際に版刻することは、彼らの活動の重要な一部であった。エンブレム・ブックは書物であるとともに美術品でもあるのだが、実際、オランダのオットー・ファン・フェーン(Otto van Veen)作のエンブレム・ブックのように横長の版画集のような体裁をしたものや、白紙を挟み込んで芳名録のように使用されたものもある。11) 

エンブレムは書物のタイトルページにも利用された。16・17世紀の書物には、通常のタイトルページの他に、その書物の意図や主題を寓意的に表現した「寓意的扉絵」(emblematic title-page)を持つものが登場する12)。エンブレム・ブックが同時代の文学に与えた影響については数多くの研究があるが、イギリスではシェイクスピアやジョン・ダンらに具体的なイメージを提供したのみならず、作品全体の解釈にかかわるエンブレマティックな枠組みを与えている。また個々のエンブレムは、画家や彫刻家に概念の絵画化のための具体的な手本やヒントを提供した。さらには、ジル・コロゼ(Gilles Corrozet)の『ヘカトングラフィー』(cat.8)の序文で記されているように、エンブレム・ブックは、版画家、画家、仕立て屋、金銀細工工、七宝焼きつけ工、さらにはつづれ織りのデザインなどを考案する当時の室内装飾業者にも、図案集として有用であった。広い意味での芸術家にとって、もっとも重要なレファレンス・ブックであったといっても過言ではない。

 

3. 版画による挿絵世界のひろがり  

版画家の活躍は、書物の内容に対応した挿絵の世界をも豊かなものにした。ヴェネツィアのアルドゥスが刊行した『ポリフィーロの狂恋夢』<画像7> (cat.58)は、繊細な木版の挿絵ゆえに今日でも評価が高い。ウェルギリウス、オウィディウス、ダンテなど、中世を通じて広く受容され続けてきた古典の場合には、15世紀になって印刷による最初の校訂版(editio princeps)が登場すると間もなく、挿絵入りの版が刊行された。近代になって盛んに編纂された国史や年代記にも、しばしば挿絵が挿入されている。こうした長大なテキストをところどころ挿絵が飾るという形態とは別に、挿絵を中心に書物が構成され、それに説明的なエピグラムや詩文が付くという、形態としてはエンブレム・ブックに似た書物も存在する。ハンス・ホルバイン(Hans Holbein)、フィルギル・ゾリス(Virgil Solis)、ヨースト・アマン(Jost Amman)等16世紀の一流の版画家の作品を中心に構成された書物などがそうであるが、こうした書物は、有力な版画家と企画力のある出版人との協力が前提となる。

3-1. 版画による挿絵のリサイクル−版木の再利用、模倣

このような書物に共通する特色は、挿絵の再利用や模倣という事実である。ホルバインの『旧約聖書挿絵』の版画(cat.46)<画像9>は、若干サイズが小さくなっているが、1552年にパリで刊行された『聖書』(cat.47)<画像8>にも使用されている.。ヨースト・アマンが『西洋職人づくし』のために作成した版画も何度か再利用されている(cat. 83-85)。また15世紀から16世紀にかけての挿絵入りのダンテの『神曲』には、細部は異なるが基本的なスタイルの連続性が認められる挿絵が用いられている13)。 実際、出版者による版木の再利用や売却は一般的で、同じ挿絵が複数のエンブレム・ブックに登場することは頻繁にある。また、文学作品への挿絵の場合においても、エンブレムほど厳密なテキストと挿絵の対応が必ずしも要求されないため、こうした再利用の例はしばしば見られるのである。

3-2. 銅版画と地誌、旅行記

16世紀になって、木版画に加えて銅版画が広く使用されるようになると、正確な視覚化の手段として挿絵を使用する書物が増加し、銅版による地図や挿絵の折り込み図版を含む書物が増加する。宮廷行事や官職の正装などを記録した書物や紋章学の提要などには正確な図版は欠かせない。また17世紀のイギリスでは、ウィリアム・ダグデイルなどの古事研究家と版画家のヴェンツェスラス・ホラーの協力のもと、大型のフォリオ版の地誌や歴史書が出版される14)。それらには、建築学的にも正確な建造物や遺跡の鳥瞰図や平面図、都市や風景の景観図、碑文や墓碑銘などの正確な翻刻などの銅版画が数多く収録されていた。また、版画は未知の世界の記録にも効力を発揮する。中国や日本についての事実と空想とが入り交じった挿絵は、当時のヨーロッパ人の東洋観の形成に影響をあたえたと思われる。

3-3. 挿絵による世界の記録−図鑑

可知世界をビジュアルに、しかも大量に記録する手段としても版画は欠かせない。HUMIプロジェクトによりデジタル化された16世紀のコンラート・ゲスナー(Conrad Gesner)の『動物誌』(cat.80-81)は、版画により動物界を徹底的に記録し、一冊の書物に再現しようとしたものであるが、こうした百科事典的な性向は、17世紀にはアタナシウス・キルヒャー(Athanaseus Kircher)に受け継がれる。何枚もの見開き図版を含んだ大型の『地下世界』(cat.76) は、版画がもつ再現力と複製力によってキルヒャーが想像した宇宙を書物化しようとした試みであり、近代初期のイメージとテクストの幸せな協力関係の果実である。

以上の慶應義塾図書館が所蔵する書物の例からも明らかなように、16・17世紀において、書物におけるテクストとイメージの関係は、それまでになく、そしておそらくはそれ以降の時代にもまして多様化していたと言える。また、書物の外観が写本のそれを継承する傾向が強かった15世紀とは異なり、16世紀なると、書物の形状の小型化と挿絵の役割の多様化との点で、書物は今日のかたちに近づいてきた。展示会というプリゼンテーションの形態と、それに付随するテーマ別の展示品図録(冊子およびWeb)の作成は、その多様化を知る上では有効な形態であるが、研究資料として様々な角度からの利用を可能にするためには、それらをマルチメディア・データベース化し、それぞれの書物間のリンクを重層的なものとしてゆく必要がある。そのように書物をイメージとテクストから形成される総体ととらえて、研究資料として整理してゆく意義については、別項を設けて考察する(3-1-2)。